ボスとベスト

「サル社会にボスザルはいない」NHKの番組で紹介されたサル学の権威である伊澤紘生さんの研究で知った。今から34年前に、白山で野生ザルをしらべた結果である。当時の定説は「ボスが群れを統率している」。伊澤さんは血まなこになって1年間ボスを探したけれど、いないのだ。ふと「もともとボスなどいないのでは」と考えた。画期的な発想だった。はじめは学会で異端視された。ところが今では「ボスはいない。自然界のサルには競争も序列もなく、皆それぞれに自由きままに生活している」というのが定説となった。

ではどうして、高崎山にボスザルがいるのか。人間の餌付けしたサル社会にボスザルは出現するのだ。人為的に価値観の一元化された社会ではそのことに長けたものが競争に打ち勝って支配するからである。ボスザルの存在は、競争の論理にどっぷりつかっている人間がサル社会に人間社会を投影していた幻想にすぎなかったのである。自然界は多様だった。そこでは競争や序列はなりたたないし、意味をもたない。

伊澤さんの「自然界では誰も競争していない。人間だけが競争の論理にとりつかれている」といった言葉にハッとした。

私は自分の子どもに悪かったと後悔していることがいくつかある。10年前、二男の成績に不満をもった私は、彼を呼んでこういった「中学での成績表をみた。この紙テープをみなさい」と、自分の準備した紙テープをスルスルと伸ばした。私はそのテープに丸を学年生徒の人数分書き込み、学校から通知された二男の席次の丸は赤く塗っていた。「良くみなさい、この赤丸が君だ、少なくとも半分より前に移動できないか」。成績と言う一元化した価値観にとらわれて、子どもに「サル山の序列をあげろ」と競争を強要したのである。長男には小学校の運動会で、要領の悪い身のこなしにいらだって「もう少し早く動けば勝てるのに」と妻にこぼしていた。この時の私は、車にはねられたネコをみても「車に負けたのだ。もっと強いネコになれ」と言ったと思う。「ネコも人間も競争に勝って喜ぶ」という幻想を持っていたのだ。違う。人間は「充分に力を試せた時に喜び、能力を伸ばす」のである。

イチローは誰とも競争していない。しいて言えば「昨日の自分」と競争している。水泳の北島浩介はライバルに勝ったから「チョー気持ちいい」のではない。ベストを尽くした自分の充実感をそう表現したのだ。子どもに「充分に力を出せたの?」と、問うてOKなら、序列はかまわなかったのだ。私は悟った。

犬のシロから家族の地位の最下位として扱われてもいい。妻の湯のみの方が大きくともいい。序列ではない。これからはナンバーワンやオンリーワンより「ベスト」ワンの時代やで。

inserted by FC2 system